ティン・パン・アレーのSIDEWAYS

季節が流れていく。音楽が聴こえてくる。

ピークを刻むビート。

tinpan19732007-05-23

そのプロジェクトなり、
コラボレーションが、
絶頂を迎えたとき、
教授こと坂本龍一氏は
ドラムを叩くのだろうか?


YMO「CUE」はアルバム『BGM』でも、
教授が叩いているんですよね? 
(81年ウィンター・ライヴだけということはないはず)


f1ゆらぎのような微妙なゆらぎを感じて、
いやジャストのタイムを刻んでいるんだけれど、
必死さ、汗を微かに感じるような、そんな気がして、
それが、ユキヒロ氏やポンタ氏のような専門家とはちがう
なんとも言えぬ“味”になって、「いと、をかし」だと思う。


この「CUE」のドラムは、
78年から始まったYMOが、絶頂期を迎え
“売って、たまるか”
“梅は咲いたか。YMOはまだか”
というコピーとともに1981年に発売されたアルバム『BGM』でのプレイ。
この2年後の83年にYMOは散開した。


同じようなことが、大貫妙子さんとのコラボレーションにも
当てはまると思う。
大貫さん76年の1st『Grey Skies』から始まった、
アルバム中のかなりの曲をアレンジするというコラボレーション。
80年『Romantique』からのヨーロッパ路線が奏功し、
この路線の代表作といえる1982年アルバム『cliche』の、
これまた代表曲といえる「色彩都市」でも、教授はドラムを叩いている。


大貫さんのライヴでも数多く演奏された名曲であるが、
「『色彩都市』はLiveでいろんなアレンジにチャレンジしようとしても、
 結局スタジオ録音の、坂本さんがドラムを叩いている
 あのアレンジに落ち着いてしまう」
と大貫さんも発言されている。


1981年「CUE」に、1982年「色彩都市」(いずれも世の中に出た年)。
“テクノ・ポップ”の成熟期に、教授のビートは似合ったのか?
あるいは、良質な“テクノ・ポップ”には、少々の“ハズシ(!?)の美学”が、
“ドレス・ダウン”が必要だったのだろうか?


YMOは、私にとって、
期待の裏切り方というかハズシ方が上手い、
“ハズシの美学”に長けた、
存在だった。