IT'S A POPPIN' DAYS. ①松任谷由実「埠頭を渡る風」
※ある自動車雑誌に連載予定だった原稿を、せっかくなので加筆修正してここに掲載することにします。
あの頃カーステで聴いた音楽が、
今シティ・ポップと呼ばれている。
IT’S A POPPIN’ DAYS.
第1回
松任谷由実「埠頭を渡る風」

カーオーディオからは、いつも音楽が流れていた。
助手席に誰もいないときも、音楽はいつも一緒だった。
お気に入りの曲が流れると、フロントグラスはスクリーンになった。
風景は情景になり、ドライブはシネマになり、移動は物語になった。
上質な音楽は、永遠を見せる
“シティ・ポップ”と称され、世界の若者に今改めて評価されている日本の音楽がある。1970年代後半から1980年代にかけて制作された、欧米の音楽の影響を受けた音楽。
洒落たメロディー、洗練されたアレンジ、高度な演奏技術。ほとんどが日本語歌詞の楽曲であるにも関わらず、発表後半世紀近く経った現在、言葉の通じない世界各国のリスナーの支持を集めスタンダードとなりつつある。
そんな音楽たちがどう生まれたのか? なぜ今評価され永遠性を獲得しているのか? 70年代後半から80年代を、10代後半から20代で過ごした筆者が、実際にその曲を聴きながら走ったあの道・あの頃を振り返りながら、考えてみたい。音楽そのものの分析は専門誌やマニアックなサイトに任せるとして、実際にカーオーディオで聴き走りながら感じた永遠、フロントグラスから見えた永遠を描いていきたい。
珠玉のドライブ・ミュージック
というわけで、第一回はユーミンなのである。
「中央フリーウェイ」(1976年『14番目の月』収録)、「リフレインが叫んでる」(1988年『Delight Slight Light Kiss』収録)など、ドライブ・ミュージックとしても数多の名曲があるユーミンだが、“シティ・ポップ”の文脈からここでは「埠頭を渡る風」(1978年10月発売のシングル、11月発売のアルバム『流線形80』にも収録)を取り上げたい。
♪青いとばりが道の果てに続いてる~ まだ付き合う前、友達だった彼女をクルマに乗せて夜埠頭まで走る、息が白くなる季節の歌。メロディアスなラテン調の曲、ドラマティックなホーン・セクション。「アース・ウィンド&ファイヤーを意識して作った」と後年(コロナ以降に聴いたから2020年から22年の間)、ユーミン自らDJを務めるFM番組で語っていたのが印象的。
埠頭を渡る風の先に見えたもの
この曲が発表された78年当時、ユーミンは低迷期だった。1972年のデビュー以来50年、
常にトップを走り続けてきたような印象を持つ人は多いが、75年「あの日にかえりたい」ヒットによる第一次ユーミン・ブーム後結婚・休養を経て、荒井由実から松任谷由実へとアーディスト名を改め77年にシングルを、78年にアルバムを発売し復帰するのだが、81年シングル「守ってあげたい」(角川映画『ねらわれた学園』主題歌)がヒットし第二次ブームとなるまでの3~4年はセールスもコンサート動員も低迷していたのだ。
ユーミンはこの78年から81年、年2枚アルバム制作という驚異的な多作ぶりを発揮する。ステージに本物の象が登場したり、今に至るスペクタクルなコンサートが本格化したのもこの頃。そして78年には葉山マリーナ(83年より逗子マリーナ)で夏の、81年には苗場スキー場で冬のリゾート・コンサートもスタート。時代に迎合するのでなく半歩先行くクリエイティビティで、再びシーンの最前線に返り咲くのである。
この曲の舞台は晴海埠頭と言われる。1983年角川書店から発売された自叙伝『ルージュの伝言』で本人もそう語っている。この曲を聴きながら、80年代前半、筆者もよく晴海までドライブした。あの辺りの風景は、この3~40年で一変した。埠頭から見えた十三号埋立地、キラキラしていつも何か建築中だった。今ではゆりかもめが走り、フジテレビの本社がそびえ、五輪の選手村にもなった。何かが生まれるエネルギー、晴海にも、ユーミンにも、日本にも、あふれていた。
Wormholeの向こうへ、宇宙がReincarnation ~ツアーへの期待〜

「松任谷由実THE WORMHOLE TOUR」初日のチケットが入手できた。
40枚目のオリジナルアルバム、72歳にして全72公演のツアーと、
その数字だけでも前代未聞・空前絶後で、デビューして半世紀以上経った今でも、
新曲が聴けて、ニューアルバムを楽しめて、ライヴを体感できる、
それだけで私たちは幸せ、その有り難さを噛み締めるべきだろう。
いや、ただ、今度のアルバムは“宇宙”がテーマ!と言われると、
アルバムに、コンサートに、期待せざると得ない。
いろんな「あーしてほしい」「こーしてほしい」が込み上げてくる。
特に、コンサート。ぜひ、久々に「Reincarnation」をやってほしい!
前回の50周年ツアー「The Journey」で、過去の記念碑的意味合いで、
中盤の盛り上がる場面で“竜=Dragon”が登場したのに、
竜の上で歌われたのは、「LOVE WARS」だった。
竜が登場した1981年「水の中のASIAヘ」ツアー。あの時竜の上で歌われたのは
「Reincarnation」だった。この「Reincarnation」は1983年のアルバム『Reincarnation』の
「Reincarnation」とは歌詞が違う。
♪私は催眠術師 今から三つ数えたら〜
2010年過ぎて、「日本の恋と〜」「ユーミンからの〜」というベスト盤が出たが、
このどちらかのボーナス特典として、この「水の中のASIAヘ」ツアーの「Reincarnation」映像が付いていたと思う。
あの50周年ツアーの竜の上では、♪私は催眠術師〜で始まり、途中からアルバム『Reincarnation』バージョンになる、
特別な「Reincarnation」を歌うべきだったと思う。
そうすれば、終盤の「やさしさに包まれたなら」「守ってあげた」「春よ来い」のボリューム層から、第二次ユーミンブーム前も知っているマニア層まで刺激する、
各年代のバランスの取れた50周年ツアーとなったはず。
このツアー、タイトルの言葉「Journey」にも違和感を覚えた。
船、航海がテーマなら「Voyager」の方が断然相応しいが、
「Voyager」は1983年発売のアルバムタイトルとして使用していたので、
50周年のコンサートツアーのタイトルには使えなくて、
次善の策としての「Journey」だったのではないか?
と、こんなことを言いながら、ユーミンを応援して今年で45年目になる。
初めてライブを観たのは、1981年の第一回の苗場コンサート。
初めて観たツアーは、同年の「水の中のASIAへ」だった。
あの時生で聴いた「Reincarnation」を、44年後の府中でまた聴けることを期待して、
その日を待つことにしよう。
路面電車はどこへ? ―風街オデッセイ2021―

ついに、生はっぴいえんどを体験した。
1973年9月21日文京公会堂の解散コンサートは、
群馬県の小学校4年生だった僕には縁がなかった。
まず、はっぴいえんどを知らなかったし、そうだな、この73年秋、
かぐや姫「神田川」やフィンガー5「個人授業」がヒットチャートに
入ってきて、なんか音楽が変わったな?と感じるのがせいぜいだった。
1985年6月の国立競技場「ALL TOGETHER NOW」での再結成時は
大学生になっていて行きたかったけど、葉山で海の家を作っていたので行けなかった。
(ちなみにこの海の家は、この年の秋に出版された松本隆氏の処女小説
『微熱少年』にもその名が登場する海の家だった)
今日、2021年11月6日、忘れられない日になるだろう。
一曲目「花いちもんめ」のイントロで鈴木茂がミスったのはわざと?
二曲目「12月の雨の日」の鈴木茂のギターのイントロを聴くと、もう涙がとめどなく…。
大滝詠一が作ったこの曲を聞いて鈴木茂がこのイントロを奏でて、
はっぴいえんどが始まったと言われる曲。
鈴木慶一は当時もしばしばキーボードではっぴいえんどライブをサポートしたと
雑誌で読んだことがある。歌唱法を大滝詠一っぽくしたことがあって、当時大滝さんに
怒られたとかいうエピソードも読んだような。
三曲目、ついに細野晴臣が歌う「風をあつめて」を聴けた。
ホソノさんのライブにも何十回と足を運んだがこの曲を聴けることはなかった。
アッコちゃんのライブでホソノさんとデュエットで歌ったのを聴けたことがあるぐらい。
今回は、ハモンド入りの原曲に近いアレンジで、
うれしかった。ありがたかった。三番の歌詞を間違えたあたりも、さすが!
という感じだった。テレたり、ハズしたり、スカしたり、どこかで我々を裏切るのが、
ホソノさんの常套手段。
細野晴臣トリビュート・アルバムで披露した「ガラスの林檎」は、
アヴァンギャルドなアレンジで今回も歌うだろうと思っていたが、
「瑠璃色の地球」が良かった。オーソドックなアレンジで、歌の上手さが万人に伝わった
と思う。今日、登場した歌手の中で最も拍手が大きかった気がする。
かれこれ40年、私は彼・彼女たちのファンである。
ここ10年ほどは好きであるゆえ、嫌いな部分も明らかに存在するようになり、
その部分には距離を置くようにしている。
はっぴいえんど結成前後の60年代末、
六本木ハンバーガー・インはもうない。
その先のライブハウス「ピットイン」もない。
外苑通りをそのまま飯倉方面に歩く。
飯倉片町の交差点の先、左側は今大規模な再開発の真っ最中。
右側のイタリアン・レストラン「キャンティ」はまだある。
数年先には、この右側のエリアも再開発となるらしい。
最近、私はこの右側エリアの会社で働き出した。
六本木の駅の上で5年、六本木一丁目の駅の上で4年、働いたことがある。
その後他のエリアに移り、六本木界隈で働くのは15年ぶりになる。
青山、麻布、赤坂が松本隆の風街なら、
渋谷、麻布、六本木が、私の風街だ。
街と、音楽の、今を、変化を、これからも自分なりに感じていこう。
そして、自分なりの風街ろまん、これからも留めていこう。
♪起きぬけの路面電車が海を渡る
(「風をあつめて」)
のは見たことがないけれど、
アルバム『風街ろまん』のジャケットに描かれた路面電車、
国道246号の三宅坂付近を走るあの電車が、
50年経ってその先の千鳥ヶ淵を渡るのを見たような
そんな夜だった。
♪ほらね 嘘じゃないだろう
路面電車は浮かんでいくよ 銀河へと
(「微熱少年」)
ウィズ・コロナ時代のセカンド・キャリア。〜NHK MUSIC SPECIAL 伝説的ミュージシャンの50年〜

いい番組をありがとうございました。
三連休の最後、ワインを飲みながらいい気持ちで拝見しました。
この手の番組を見た直後は、例によってランダムで感想を記すことにします。
○オンエア、地上波祝日18時から38分?
BSで2時間ぐらいでやれば良かったのに。
これは今年の紅白もSKYE+ユーミンの出演をNHKが考えていてその前パブ?
(前々回の桑田とのエンディングが話題となった「やさしさに包まれたなら」のとき、
バックが林+小原+鈴木+松任谷だったような。あ、武部さんとかもキーボードで
参加したか)
38分の放送枠に収まり切らなかった座談会の話を、
YouTubeか、NHKアーカイブで流してください。NHKさん!
○林氏スティック落としとタイトル『〜たい』の曲はヒットする。
数週間前、ほとんど放置状態の拙ブログのアクセス数が意味不明の上昇を見せました。
林立夫氏がドラムのスティックを落とし、タイトルに「〜たい」が付くと
その曲はヒットするとして、
1975年「あの日にかえりたい」、1981年「守ってあげたい」を例に記したことがあって、
その辺りの確認材料として使われたのでしょうか。うれしいです。
○「中央フリーウェイ」のミュージシャンとエンディングのコーラス
あのエンディングのコーラス、尾崎亜美さんだったんだ。
吉田美奈子さんだと思っていた。
この曲のリズムセクションは、マイク・ベアードDrums、リーランド・スカラーBaseで、
この頃ティン・パンの面々のスケジュールが忙しくて合わなかったそうですね。
私は、「あの日にかえりたい」でユーミンがブレイクして、
松任谷正隆氏がカネのこと考えず自分のやりたいミュージシャンにオファーできるように
なったから、このリズム・セクションになったと思っていた。
○小原礼氏の関連性はアルバム『ひこうき雲』に一曲参加しているじゃなくて
番組で取り上げていたムッシュかまやつ氏がプロデュースした
ユーミンのデビュー・シングル「返事はいらない」のベーシストとして
紹介すべきだったと思う。キャラメル・ママに出会う以前にセッションしていた。
高橋幸宏ドラム、バズの東郷兄弟コーラスとともに。
2018年11月の東京国際フォーラムでのSONGS & FRIEND
小坂忠『ほうろう』コンサート。忠さんが病気で倒れたとき、
亜美さんが物凄い貢献をされたことはわかりました。
ただ、名曲「機関車」のサビのコーラスを亜美さんが担うのは違うんじゃないか
と思いました。当日は吉田美奈子さんも参加されていました。
サビの♪目がつぶれ〜
2000年のティンパン@NHKホールが、
2016年の小坂忠50周年記念ライブ@渋谷さくらホールが、
そうだったように、ここはオリジナルと同じ忠&美奈子のコーラスに涙したかった。
○SKYEのレコード会社は日本コロンビア
70歳のデビュー・アルバムを発売するレコード会社は、
ティン・パン・アレーのクラウンじゃないんだ。
ユーミンのユニバーサルでもないんだ。
いしだあゆみwithティン・パン・アレー『アワー・コネクション』が
コロンビアだったはず。
私、NHK朝ドラ『エール』以来、戦後〜はっぴいえんどの日本音楽史に
興味が湧いております。老後の楽しみにしたいと思っています。
あと、私も70歳で、○○か○○○デビューしたいと思うことにします。
○コロナはBoogieで音楽に。「ISOLATION」
キャラメル・ママのライブ定番曲「キャラメル・ラグ」もBoogie Woogieだった。
この閉塞感をブギーに託す。わかる気がします。
「窓は開けておいて」林氏の詞もナルホドと思いました。
1984年TOTOのアルバムも『ISOLATION』だった。
80年代半ば、米ソ冷戦が収束に向かい、プラザ合意は1986年、
どなたかTOTOとの関連で語っていただけないでしょうか。
ちなみに、私はTOTO『ISOLATION』は「隔離」でなく、
「孤立」と捉えていた。当時。
コロナと矢野顕子が、音楽の先生に思えた夜。
矢野顕子「さとがえるコンサート2020」に行った。

コロナの第二波が収まりつつあった10月中旬に友人のコンサートを聴きに
ライブハウスに行ったが、ホールに行ったのはコロナ前以来だから本当に久々だ。
会場は渋谷NHKホール。座席は一つ空けて座るようになっていた。
私の席は、何と前から2列目!(Sさん、ありがとう!)
NHKホールでの私史上最前列は、1987年大貫妙子「A SLICE OF LIFEコンサート」の
前から6列目だから、33年ぶりの記録更新だ!

今回、バックアップ・ミュージシャンは林立夫D、小原礼B、佐橋佳幸G。
オープニングの二曲が終わりブレイクに入った段階で、もう拍手が鳴り止まなかった。
好きな音楽家の生演奏を聴く、一寸前までは当たり前だったことが、
何か物凄く有り難く貴重なものに感じられて、私も拍手しつづけた。
矢野さんも感極まった様子だった。
80年代の名曲を数多く演奏してくれた。
「ふり向けばカエル」とか、バンド編成で聴くのは初めてだった。
「春咲小紅」も、私はライヴで聴くのは初めてだった。
矢野顕子ライヴ20回以上は行っていると思うが、
私が行った1987年から2015年ぐらいは、「春咲小紅」をバンド編成で歌うのはまず
有り得ないことだった。一緒に行ったSさんによると、最近は良く演っているそうだが…。
やはり久々にライヴで聴いた「また会おね」含め、
(1999年、大村憲司トリビュートコンサートでの演奏が私にとって印象的)
YMOテイスト全開の楽曲「春咲小紅」「また会おね」を
高橋幸宏でなく林立夫ドラムで聴けたのは、格別の趣きがあった。
山下達郎「PAPER DOLL」のカヴァーは、この4人ならではのカッコ良さ!
「津軽海峡冬景色」のカヴァーも聴けて、異次元の味わいがあったが、
私はこれを好きとは言わない。この曲を取り上げる必然性を感じない。
あっ、矢野さんは幼少期、青森県で過ごされたのか?
「ラーメン食べたい」「ごはんができたよ」、
80年代のこの曲が発表された当時、曲はテクノでカッコ良かったのに、
背伸びも何にもしていない、日常的な詞の世界がとにかく私は苦手だったっけ。
イッセイミヤケとかヨージヤマモトを着て、
こんな庶民感覚丸出しの歌を唄われても、
ウソっぽいと思った。
これをありがたがる“ヘンタイよいこ”“宝島〜ビックリハウス”的価値観が
とにかくキライだった。
昼にのり弁当を食べるワンレンのハウスマヌカンのようなアンバランスさを感じた。
湘南をクルマで走るPOPEYE少年やJJ(ついに実質休刊!)ガールのほうが、
まだ健康的で正直だと思った。
わかるようになったのは90年代コピーライターになってからだった。
演奏を聴きながら、そんなことを懐かしく思い出した。
本編最後「ひとつだけ」、
アンコール最後「GREENFIELDS」、
ありがとう! 大好きな曲!
今日は演奏されなかったが、これにデビューアルバム収録「電話線」を加えた三曲が、
今も変わらぬ、そして私にとって永遠の矢野顕子ベスト3 SONGSだ!
マスクをしていたし、前後左右空席なので、曲に併せて大きめの声で歌った!
(カラオケも、コロナが始まって以来行けてないな)
ライヴが終わったとき、マスクの上部が涙で濡れていた。
音楽を奏でること、
歌を唄うこと、
それを生で聴くこと、
人間にとって、太古の昔から続いてきた、大切な行為なんだよな。
そんなことを改めて感じさせてくれた
深海の街に、あるホテル。
12月1日、ユーミンの新譜が発売された。

私が会社勤めでない立場で新譜を聴くのは、1987年『ダイヤモンドダストが消えぬ間に』以来だから、33年ぶりか。
時間に余裕があるので、テレビ、ラジオ、ウェブでのプロモーションでの映像や発言含め堪能している。
時代とともにプロモーションする媒体も変化している。雑誌の地位が低下したなという印象。発売日を待って、本人によるアルバム全曲解説がウェブで公開された。
ひと昔前だと、全曲解説が文字で読めるのは雑誌やレコード店頭での販促物だった。私はとにかくこの本人による楽曲解説が楽しみだった。
テレビによく出ているなという印象があるが、テレビはもはやマスメディアでなくクラスメディアとなっていると思う。どの番組も視聴率10%超えれば御の字のような状況。
発売日の夜9時から、ユーミン初のインスタライブが行われた。
時間にして30分ほど。ライブで歌うのでなくトーク。アルバムジャケットの撮影に使われた潜水具が展示されたレコード店からの中継、視聴者からの生の声や質問に答えていく内容だった。
発売日当日、ユーミンは近所の公園をウォーキングし、そのまま遊歩道のようなところを散歩したそうだ。その遊歩道は、何と私の家から数メートル。
「そうか? あの時間、私もあの用事を済ますため家を出れば、すれ違っていたのかも知れないな」と思ったりした。私にとって、ものすごく吉兆な気がした。今、ある事を希求しているのだが、私が家で仕事していた数メートル先をユーミンが歩いたということは、それだけでプラスの波動を浴びたような気がした。
お茶しようとしてリュックの中に財布を入れていなくて諦めたという、ロフトのようなカフェってどこ? 地元に住んでいてわからない。どなたかご教示ください。
さて、アルバムは『サーフ&スノウ』Volume2を意識して当初作り出したそうだ。実際にジャケットで男女がキスするビジュアルは、シーンが深海に変わっているだけで、アングルやポーズを似せている。
新譜をひと通り聴いて、内容に関しては『サーフ&スノウ』Volume2というより、同じ1980年に発売されたこの前作『時のないホテル』Volume2という印象を私は抱いた。
『時のないホテル』もアルバムのテーマを掘り下げ、トータルなイメージを直接的に形作ったのは、次の4曲。
1曲目「セシルの週末」
2曲目「時のないホテル」
3曲目「MISS LONELY」
終曲「コンパートメント」
新作『深海の街』は次の4曲か。
1曲目「1920」
2曲目「ノートルダム」
10曲目「REBORN〜太陽よ止まって」
終曲「深海の街」
もちろん「Good! Morining」などタイアップで先に発表された曲も詞を書き改めたり、「散りてなお」や「あなたと 私と」等壮大なラブソングが、アルバムに深遠さを付加している。
『時のないホテル』も、観音崎の歩道橋に立ってドアの凹んだ白いセリカで国道16号をドライブした日を想う、80年代突入時点での妙齢女性心理を描いた「よそゆき顔で」や、当時の若者風俗を描きつつもアガサ・クリスティの映画でダスティン・ホフマンが自分より背の高い女性と踊るシーンにも通じる「5cmの向こう岸」など、趣きある曲がアルバムの間口を広げ、味わいを加えている。

1980年当時ユーミン はセールス低迷期だった。翌81年「守ってあげたい」で第二次ブームとなり、以後80年代後半〜90年代初頭CDプレーヤーの普及と団塊ジュニアの購買層突入によるメガ・セールス時代まで、セールス面での上り調子が続く。
この『時のないホテル』発売時、雑誌『ミュージック・マガジン』ではレコード評で1ページ割かれることもなく、巻末ページの一言レビューのような扱いだった。
そのレビューが「ユーミン、『ホテル・カルフォルニア』は超えられなかったね」というようなものだったと思う。
「比較対象が違うだろ! 比べるならイーグルスじゃなく、プロコル・ハルム『グランド・ホテル』だ!」
と、私は思ったものだ。あれは確か発売から10年ほど経った1990年の春先かな。下北沢の古本屋で『ミュージック・マガジン』のこの号を見つけ読んだ気がする(そう言えば、あの時も会社勤めをしていなかったな)。
80年代、時代は変わり、音楽も変わった。
経済は二度のオイルショックを乗り越えつつある時。ソ連がアフガンに侵攻し、1980年のモスクワでの五輪は米国や日本など西側諸国がボイコット。
遠い半島の国では第何次かの戦争が…。
キナ臭い空気は漂っていた。
音楽はクロスオーバー〜フュージョンがピークを迎え、テクノが世界を席巻し、AORが都市を彩った。
私にとってはとにかく音楽、YMO、大滝詠一、山下達郎、松田聖子らのヒットにより、はっぴいえんど〜ティン・パン・アレー系統の音楽家の偉大さに気づかされた。進路選択や人生に多大な影響を受けた。
あれから40年経った20年代、ウィズ・コロナ、ポスト・コロナ。また時代は変わり、音楽も変わるのだろう。
新譜『深海の街』、ユーミンの詞がまた新境地を開拓している気がする。
シンプルな言葉が、深い意味をまとっている。
かならずわかる ふり返れば 何を追いかけたか (「1920」)
歩きだそう 歩いてゆこう 歩きだそう (「ノートルダム」)
あなたに会いに行く (「雪の道しるべ」)
未来にいちばん近い一日が始まる (「Good! Morining」)
50代後半になった私も新たな地平を求め、歩きつづける。
ときめきの産地。あこがれの聖地。『音響ハウス Melody-Go-Round』
映画『音響ハウス Melody-Go-Round』観る。
感動しないわけがなかった。オープニングから涙腺が緩んだ。
朝10時から映画を観て、いきなり涙が流れるという行為に体が違和感を醸す。
朝10時、平日は仕事をする。休日は走る。それ以外の行為、
特に感情が昂ってしまうことに体が慣れていないようだ。
この映画のために「Melody-Go-Round」なる楽曲をつくって
(大貫妙子・作詞、佐橋佳幸・作曲)、楽曲がどうレコーディングされ
かたちになってていくかを時系列にドキュメントしつつ、
音響ハウス所縁のミュージシャンや楽曲や関係者のコメントを挟んでいく構成。
この構成を真似て、感想を記していってみようか。
思ったことをランダムにつぶやきながら、全体の流れができればうれしい。
・まず、この楽曲を歌った13歳の女性シンガーHANAの起用。スバラシイ!
マニアや経験者の懐古ではない、ベクトルが未来に向いている!
・楽曲が作られていく過程や裏側を時系列で見られたのがウレシイ!
ライヴで楽曲を聴くのでなく、楽曲ができ上がるまでをライヴで追えるのは貴重。
・大貫妙子の「音楽」をテーマにした詞、サスガ!
「音楽」テーマの詞は、
シュガー・ベイブ「すてきなメロディー」(作詞:伊藤銀次/大貫妙子/山下達郎)
等あるけれど、それらに勝るとも劣らぬ出来栄え!
・ユーミンは1978年『紅雀』から86年『アラーム・ア・ラ・モード』まで
音響ハウス使用。この、結婚後セールス低下→年2枚アルバム制作→
「守ってあげたい」第二次ブーム→87年『ダイアモンドダスト〜』以降の
ミリオンセールス時代突入までの約10年間が、私にとっても思い入れが強い時期。
・というようなことを、このブログでも以前記したような…。
検索したら出てきた。もう12〜13年前か。
https://tinpan1973.hatenadiary.org/entry/20070128
https://tinpan1973.hatenadiary.org/entry/20080314
・そうなんだよな。仕事で何度か音響ハウスは訪れたが、
スタジオに着くと入口の案内板で、自分が行く部屋の確認はもちろん、
他にどんなアーティストがどのスタジオを使用しているか?
胸ときめかせチェックしたものだ。
・とにかく、“きちんとしている”“まちがいがない”スタジオという印象です。
私が広告の仕事で使用させていただくときの「音響ハウス」のイメージは。
だからこの映画のオープニング、遠藤氏の毎日の通勤と日々のルーティンで
始まるのも、とっても“らしい”と思った。
・「音響ハウス」、今でもマガジンハウス系列の会社ですよね?
雑誌に、音楽に…、仕事でも。私の人間形成に多大な影響を受けました。
こんど銀座のあちら方面に行く機会があったら、
久々に聖地巡礼して来ようと思います。
音楽にはさまざまな側面があって、
レコーディング・スタジオという面から音楽を見つめ描いた
上質なクリエイティブに触れて、
ときめいた・ワクワクした気持ちになりました。
これまでも、このスタジオで生まれた音楽に、思春期以降
さまざまなときめきやワクワクを与えていただきましたが、
今日この映画を観て改めて、
これからを生きる私の背中を押していただいた、活力をいただいた気分です。
私、ここ数ヶ月、数十年ぶりに時間的余裕のある日々を過ごしています。
せっかくなので、音楽のある一面を切り取って、自分らしい、
今までありそうでなかったアウトプットができないか?
トライしてみました。結果が出るまでもう少し。皆さんに良いご報告ができると
いいなと思っています。あまり期待せずにお待ちください。
