My First シュガー・ベイブ~Dedicate to “SONGS”Part2
初めて、シュガー・ベイブ『SONGS』を一枚丸々聴いたのは1985年。
発売から10年たっていた。ただ「DOWN TOWN」は口ずさめたし、
(「ひょうきん族」→epoのルートで覚えたのだと思う)
大貫妙子さんの「いつも通り」「蜃気楼の街」も何度か耳にしていた。
22歳・大学3年生の秋のある日、
貸レコード店「REIKODO」(漢字が思い出せない)でレンタルした。
当然アナログ・レコード。カセット・テープに録音した。
なぜ、この時借りたのか? 明確な理由は覚えていない。
85年というと、山下達郎さんはすでに大メジャー。
83年は『MELODIES』、84年は『BIG WAVE』と、
夏に合わせて新譜を出してくれたのに、この年は何も出なくてツマンナカッタ覚えがある。
大貫さんも83年夏「夏に恋する女たち」ドラマ主題歌ヒットでブレイク。
この85年春は「ベジタブル」が資生堂キャンペーン・テーマに起用されたりと、
時代に対していいポジションをKEEPされていたと思う。
このお二方がいらした伝説のバンドのアルバムでも聴いてみるか
と、軽い気持ちで思ったのだろう。
REIKODOでたまたまジャケットが目に入ったのと、
他に借りたいレコードが貸出中だったのだと思う。たぶん。
家に帰って、針を落とす。
♪ジャ~ン
「SHOW」のイントロが流れ出す。達郎さんが歌い出す。衝撃が走った!…
なんてことは、別になかった。
「モノトーンで汗臭いロックが主流の時期に、
カラフルでPOPなサウンドの…」
シュガー・ベイブの修飾語としてよく使われるこのフレーズは、
80年代半ばにはあまり意味を為さなかった。
(オメガトライブとか、似非AOR的軟弱サウンドが逆に巷に溢れていた)
「メジャー7thでロックン・ロールできることを教えてくれた」
これも、乱数表を使ってコード進行を考え作曲する高橋研とかいう人が
話題になったりして、テンション・コードや分数和音も巷に溢れていたと思う。
(というか、達郎さんも、ユーミンも、大メジャーだった時期だから)
色彩感のあるサウンド、緊張感のあるコード…。
85年時点ですでに十分主流だった方法論が、この75年の「SONGS」で逆に
原始的に、プリミティブに、提示されていたことが、
新しく、新鮮に、感じられたのだと思う。きっと。
達郎さん、大貫さん、村松さんの声は若く、演奏は拙く感じた。
達郎さんも大貫さんも、名うてのミュージシャンを起用して極上サウンドを
届けてくれる存在だったので、素人っぽい音が逆に新鮮に聴こえた。
それから、やはり、デビュー・アルバムということで、
「自分たちの音楽が初めて世の中に出る」パッション・エナジー・気
のようなものが、漲っていると思う。
“処女作にすべてがある”小説家に対してよく使われる言葉だが、
自分ならではの音楽を作り世に問うていこうとするティン・パン系の音楽家たちにも
この言葉は当てはまると思う。
週末のパーティとか楽しいイベントの前に「DOWN TOWN」を
今まで何回聴いたかわからないし、
睡眠が十分でないユーウツな朝には「ためいきばかり」のメロディーが
口をついて出てくるし、
春や秋の天気のいい日、公園や川原までウォーキングするときは「蜃気楼の街」を
どうしても口ずさんでしまうし、
「いつも通り」や「今日はなんだか」は、ありきたりの日常に疲れたとき、
時々無性に聴きたくなる。
この『SONGS』は、紆余曲折を経て、日本の商業音楽の世界でスタンダードとなるべく
運命をもったアルバムだったのだと思う。
意志をもって能動的に音楽を聴こうとする若者に対して、
いつの時代も変わらぬときめきを届けてくれるSONGSなのだ。
発売から10年たっていた。ただ「DOWN TOWN」は口ずさめたし、
(「ひょうきん族」→epoのルートで覚えたのだと思う)
大貫妙子さんの「いつも通り」「蜃気楼の街」も何度か耳にしていた。
22歳・大学3年生の秋のある日、
貸レコード店「REIKODO」(漢字が思い出せない)でレンタルした。
当然アナログ・レコード。カセット・テープに録音した。
なぜ、この時借りたのか? 明確な理由は覚えていない。
85年というと、山下達郎さんはすでに大メジャー。
83年は『MELODIES』、84年は『BIG WAVE』と、
夏に合わせて新譜を出してくれたのに、この年は何も出なくてツマンナカッタ覚えがある。
大貫さんも83年夏「夏に恋する女たち」ドラマ主題歌ヒットでブレイク。
この85年春は「ベジタブル」が資生堂キャンペーン・テーマに起用されたりと、
時代に対していいポジションをKEEPされていたと思う。
このお二方がいらした伝説のバンドのアルバムでも聴いてみるか
と、軽い気持ちで思ったのだろう。
REIKODOでたまたまジャケットが目に入ったのと、
他に借りたいレコードが貸出中だったのだと思う。たぶん。
家に帰って、針を落とす。
♪ジャ~ン
「SHOW」のイントロが流れ出す。達郎さんが歌い出す。衝撃が走った!…
なんてことは、別になかった。
「モノトーンで汗臭いロックが主流の時期に、
カラフルでPOPなサウンドの…」
シュガー・ベイブの修飾語としてよく使われるこのフレーズは、
80年代半ばにはあまり意味を為さなかった。
(オメガトライブとか、似非AOR的軟弱サウンドが逆に巷に溢れていた)
「メジャー7thでロックン・ロールできることを教えてくれた」
これも、乱数表を使ってコード進行を考え作曲する高橋研とかいう人が
話題になったりして、テンション・コードや分数和音も巷に溢れていたと思う。
(というか、達郎さんも、ユーミンも、大メジャーだった時期だから)
色彩感のあるサウンド、緊張感のあるコード…。
85年時点ですでに十分主流だった方法論が、この75年の「SONGS」で逆に
原始的に、プリミティブに、提示されていたことが、
新しく、新鮮に、感じられたのだと思う。きっと。
達郎さん、大貫さん、村松さんの声は若く、演奏は拙く感じた。
達郎さんも大貫さんも、名うてのミュージシャンを起用して極上サウンドを
届けてくれる存在だったので、素人っぽい音が逆に新鮮に聴こえた。
それから、やはり、デビュー・アルバムということで、
「自分たちの音楽が初めて世の中に出る」パッション・エナジー・気
のようなものが、漲っていると思う。
“処女作にすべてがある”小説家に対してよく使われる言葉だが、
自分ならではの音楽を作り世に問うていこうとするティン・パン系の音楽家たちにも
この言葉は当てはまると思う。
週末のパーティとか楽しいイベントの前に「DOWN TOWN」を
今まで何回聴いたかわからないし、
睡眠が十分でないユーウツな朝には「ためいきばかり」のメロディーが
口をついて出てくるし、
春や秋の天気のいい日、公園や川原までウォーキングするときは「蜃気楼の街」を
どうしても口ずさんでしまうし、
「いつも通り」や「今日はなんだか」は、ありきたりの日常に疲れたとき、
時々無性に聴きたくなる。
この『SONGS』は、紆余曲折を経て、日本の商業音楽の世界でスタンダードとなるべく
運命をもったアルバムだったのだと思う。
意志をもって能動的に音楽を聴こうとする若者に対して、
いつの時代も変わらぬときめきを届けてくれるSONGSなのだ。