ティン・パン・アレーのSIDEWAYS

季節が流れていく。音楽が聴こえてくる。

ライヴと音楽の今日・明日。

tinpan19732011-01-04

あけましておめでとうございます。
本年もよろしくお願いいたします。


年末年始の休み中に、書いてみようと思っていたテーマがあって、
明日で休みが終わってしまうので、今日はとにかくトライしてみよう。
ちょっと酔っ払っているので論理に破綻をきたすかも知れないが、
まあいつものこととお許しいただければ幸いです。


テーマは「ライヴ」について。


山下達郎さんが2年連続でコンサート・ツアーを行った。
このアクティビティ、昨年末に配布されたファンクラブ会報では、
「これからの時代は、ライヴに戻っていかざるを得ないという考えに帰結した
 結果の行動」とコメントされている。


坂本龍一さん&大貫妙子さん『UTAU』コンサート・ツアーでは、
多くのライヴをリハーサルおよびライヴ後の様子を含め
Ustreamでオンタイム配信。
直前の教授の北米ソロ・ツアーではUst配信と直後のiTunes配信が
パッケージになっていた。


牧村憲一氏・津田大介氏共著『未来型サバイバル音楽論』には、
CDは売れなくなって久しいがライヴ・シーンはまだ右上がりと
記されている。


吉田美奈子さんはAvex ioとの専属録音契約から離れ4年、
ライヴを中心に活動されている。


レンタルやら配信やらで音楽を巡る状況が、
コンビニエント&リーズナブルになればなるほど、
逆に音楽自体が不幸になっていくというか…。
楽家にとって、レコード会社と年間数千万円なりの専属録音契約を結び、
一定のインターバルとバジェット内で、楽曲を作りパッケージにして世に出す
ということだけでは最早、音楽活動を維持できない。
そんな時代が到来しているのだと思う。


これは、私の解釈では一種の“原点回帰”、
1970年代前半の状況に立ち戻っているのでは?と思う。
日本のロック、日本のポップスというものがまだ商売になると認識されず、
はつぴぃえんど(はっぴいえんど)も、荒井由実も、吉田美奈子も、
シュガー・ベイヴも…、活動を始めてから最初のアルバムが世に出るまで、
ライヴ中心の活動に明け暮れていた。ライヴを活動の中心にせざるを得ない
状況にあったと思う(アーティストごとに事情は異なるが…)。


ライヴ。人前で楽曲を演奏して歌う。
もう一度は原則として有り得ない。一瞬一瞬が幸福・至福の時間。


ただ、ただ、唯…。これは声を大にして言いたいのであるが、
そこで演奏して歌われる楽曲のほとんどは、
基本的にメロディーも詞も聴衆である自分が理解している楽曲であって
欲しいのだ。レコード(記録)された楽曲の追体験・再認識の場が
ライヴ(コンサート)であってほしいのだ。
一音一音、一語一語を噛み締めたいのだ。


だから、私は、山下達郎さんにコンサートのMCで
「ライヴに“予習”は必要ない」と言われてもそうは思わないし、
吉田美奈子さんがライヴで演奏した楽曲の1/3が未発表曲
(音源が発表されていない曲という意味)であれば、
疑問を感じざるを得ないし、
坂本龍一大貫妙子が共演・競演したライヴでは「突然の贈りもの」は
最低限演奏してほしいのだ。


相応のおカネを払ってチケットを押さえ、
スケジュールをやりくりして足を運び、
そこで過ごす時間に私の求めるもの。


気がつけば、このBlogに書き込む内容は、ここのところ、
ライヴ鑑賞記のようなものがほとんどになっている。


音楽の送り手の方々の活動の中心がライヴにシフトしているように、
聴き手の我々の行動もライヴが中心になっている気がする。


パッケージでなくライヴ。
それが時代の趨勢ならば、そんな時代をとことん楽しもうと思う。
幸いにして、インターネットの発展により、
ライヴに対する私たちの感想や期待が音楽家に届きやすい時代にもなっている。


音楽の受け手と送り手が、それぞれ敬意と感謝を持って音楽に接する。
新しいビジネス・モデルは、意外とシンプルなところから膨らんでいく
(「スキーム」だの「スキル」だの、そんな言葉を使う輩からは生み出されない)
気がする。


いかん。やはり上手くまとまらなかった。後で書き直そう。