ティン・パン・アレーのSIDEWAYS

季節が流れていく。音楽が聴こえてくる。

1973年の大賞曲も名盤も。

tinpan19732007-05-08

1973年のゴールデン・ウィークのある日。
(「連休」より、こう言うほうが昭和48年っぽい)
10歳になる前、小学4年生の僕は、
利根川にサイクリングに出かけた。
何かのイベントだったと思う。子供たちが数十人集い、
川原で遊びお弁当を食べた。


20代前半のお姉さんが、僕たちのグループの担当となり、
集団行動上の諸々の面倒を見てくれた。
髪が長く、顔立ちは美しく、ジーンズを穿いていた。
70年代前半だから当然ロー・ウェスト。
今流行しているロー・ライズTypeと似たシルエットだ。
違うとすれば、裾の部分がベル・ボトムになって広がっている点か。


♪今日まで二人は恋をいう名の〜
時々、お姉さんはこの歌を口ずさんでいた。
「あ、この間テレビでジュリーが歌っていた新曲だ」
と、僕は思った。なぜか恥ずかしくて話しかけることはできなかったけれど。


利根川の向こう岸、埼玉県の狭山で、
その当時約3ヶ月前に、この曲はミックス・ダウンされたらしい。
30年ほど経って、その事実を知った。


沢田研二「危険なふたり」(作詞・安井かずみ、作曲・加瀬邦彦
エンジニアは吉野金次さん。
この1973.年の2月に、狭山の細野晴臣氏宅で『HOSONO HOUSE』の
レコーディングが始まっていた。
スケジュールの関係で、ジュリーの新曲のミックス・ダウンを
狭山で行わざるを得ず、「危険なふたり」のメロディーが何度も響き渡った。
キャラメル・ママの面々(林立夫氏、鈴木茂氏、松任谷正隆氏)が
レコーディングする曲のメロディーを忘れてしまうほど…。
というエピソードを読んだ覚えがある。
(出典は家中のはっぴい関連の本を探せば判明します)


この年の日本歌謡大賞を受賞したヒット曲から、
ニッポンのPOPS史上のエポック『HOSONO HOUSE』まで。
バリエーションの多彩よ。吉野氏の多才さよ。


シンガー、
ソングライターやコンポーザー、
アレンジャーやプレイヤー、
プロデューサー、
これが誰かに注目して音楽を聴くようになった。ある時期から。


プレイヤー、たとえばギタリストの選択肢に比べて、
エンジニアの選択肢はかなり限られるのだろうな。きっと。
昔も今も。吉野金次氏に、吉田保氏に…。


ミュージシャンやアーティストの数に対して、
エンジニアの数は少ない、と思う。
吉野さんの復帰を、私も、祈って、いや願っております。