ティン・パン・アレーのSIDEWAYS

季節が流れていく。音楽が聴こえてくる。

「蒼氓」を聴いた朝。

tinpan19732007-03-27

「詞を第三者に委ねた達郎作品が好き」
と昨日書いたが、自作詞もかなり好きだ。


「風の回廊」「BLOW」「風がくれたプロペラ」
あたりに顕著な少年性や過ぎし日へのイマージュ。
この路線には、何とも言えない共感を覚える。


♪僕らは皆 逆立ちのDANCER〜
北のあの国へ帰っていった高校の先輩を歌ったと云われる
「DANCER」(1977年『SPACY』収録)など、
昨年夏の例の騒ぎのとき改めて聴き(読み)直してみたが、
スゴイ詞だと思った。


「WAR SONG」(1986年『POCKET MUSIC』収録)を聴くと、
♪見上げれば一面にしどけない闇が広がり〜
という言葉とともに、同時期のチェルノブイリの映像が甦り、
♪老人は冬を呼ぶ〜
という歌詞は、当時のN首相の顔をどうしても思い出してしまう。


“自分の言葉で、自分の思想を、詞に込めてみたかった”。
1995年にMOONレーベルのベスト盤『TREASURES』が発売されたとき、
ほとんどが自作詞となった1983年以降MOONでの軌跡を振り返って、
インタビューでこのようにご本人がコメントされていたのを覚えている。


そんな思いが、最も高密度に込められたアルバムが、
『僕の中の少年』(1988年)のように感じられる。


自分の中の少年性が、生まれたばかりの子供の目の中に受け継がれている
と歌ったタイトル・チューン「僕の中の少年」。
メディアでしたり顔でコメントしている輩の虚しさ、
普通の人々の普通の感情や生活こそ価値あるべきものと歌った
“半文化人音楽”の表明といえる「蒼氓」。


バブル期を迎え(当然ですが、当時「バブル」という言葉は無かった)、
世の中が浮かれ始めたように感じられた
1988年に、かなり辛口に響いたものだ。


蛇足だが、当時私は社会人としてようやくマトモに働き出した頃。
週末に一日でも有休をくっつけて、夏は海に、冬はスキーに行くのが
楽しみだった。その時間だけお気楽な学生時代に戻れた。


行き帰りのクルマの中で聴く音楽。
ロッジやコテージで流す音楽は、
リラックスした時間を過ごすのにことの他重要だった。


それなのに…。
土曜日一日スキーを満喫して、夜は飲んで騒いで寝て日曜日。
起きる時間に、この曲を流したヤツがいたんだ。
「蒼氓」を。


スバラシイ曲だと思う。
上に記したようなウンチクを語り合ったりしたとも思う。
桑田夫妻がコーラスに参加していて、スケジュールが合えば
坂本・矢野夫妻(当時)も参加するはずだったと
前夜あたりこの曲を聴きながら話したりもした。


でも、休日の朝、リゾートで流す曲じゃないよな!
といきなりフキゲンになったのを、今でも昨日のように思い出す。