ティン・パン・アレーのSIDEWAYS

季節が流れていく。音楽が聴こえてくる。

小さなリアル。

tinpan19732007-01-06

年末年始、11連休になったのを幸いに、
何年ぶりかで家の本棚周辺を整理している。


本棚に入りきらずあふれた書籍や雑誌。
かなり非情な心になって、捨てる/残すを選別する。


読もうと思って買いそのままになっていた雑誌、
これは迷わず捨ててしまへ。
この記事だけはどうしても…と思ったら、そこは切り取り、
とりあえずクリア・ファイルへ。
あ、同じ書籍が二冊ある。数年前に買い求めたのを忘れて、
先日また買ってしまったらしい…。


生まれて初めて、ブック・オフに本を持ち込んだ。
リュックひとつに詰め込み持って行って、1,430円!
なんか清々しい気分になった。


書籍や雑誌の山から、月刊『文藝春秋』2006年9月号が出て来た。
これは、そうだ。芥川賞受賞作を読もうとして購入したんだ。
読んでみるか。記念すべき2007年最初の読書だ。


伊藤たかみ「八月の路上に捨てる」。
選評を読むことができるのも、芥川賞受賞作を『文藝春秋』で読む
メリットのひとつだが、今回は押し並べて厳しいコメントが並んでいる。


「八月の路上に捨てる」、それなりにおもしろかった。
格差社会の底辺に生きる若者の仕事と離婚
 フリーター文学の誕生!”
と記された内容説明のフレーズは「ウソばっかり」と読後思ったが。


その時々の芥川賞直木賞受賞作に、僕が期待することは
ほんの“小さなリアル”であって、それ以上でもそれ以下でもない。
現代や時代が鮮やかに切り取られ、
そこに何らかの共感を覚えればそれでいい。


この作品では、男女が出会い結婚し離婚するまでの過程に
“小さなリアル”を感じた。
選者の大先生にとっては、物足りないらしいけれど。


小説の世界も、
僕が一応所属している広告の世界も、
趣味で接している音楽の世界も、
エライ人たちは揃って“閉塞”を主張する。


だけど、いや、そうか?
アタリマエじゃないか! 閉塞=健全の証じゃないか?
そんなしょっちゅう画期的なクリエイティブは生まれないでしょうよ。
大先生がお作りになった作品だって、
シェイクスピアや、DDBや、ビートルズと比べたら…。


小説も、広告も、音楽も、
エポックというのは時代との関係から生まれるわけで、
小説や、広告や、音楽は、
地味でおとなしい“小さなリアル”を追求することが、
00年代半ばの今、実は大切なことなんじゃないかと、私は思います。


60年代終わりから70年代初めの音楽、
70年代終わりから80年代初めの広告、
明治以降1980年代までの小説なら、
“閉塞”打破を声高に主張しても許されると思うけれど。
ジャンルそのものにパワーがあったから。


年の初めのせいか、テーマが大きなところに行ってしまったようです。
飛躍しすぎた論旨、つづきは、いずれ、そのうち、また。ということで。