ティン・パン・アレーのSIDEWAYS

季節が流れていく。音楽が聴こえてくる。

アレジとともに駆け抜けた90年代。

tinpan19732006-10-07

久々に青空が広がった三連休初日、
テレビでF1予選を観ている。


F1グランプリ、私にとって
90年代の象徴である。


セナ、プロスト、マンセルと
個性あふれるドライバーの存在。
バブル景気とともにスポンサードする
日本企業が続出。中島悟、鈴木亜久里と、
日本人ドライバーの進出。トップ・エンジン
として君臨したHONDA。全戦中継を始めた
フジテレビ…。さまざまな要因により空前のF1ブームに沸いた。
私自身、91年、92年、実際に鈴鹿に足を運び日本GPを観戦したものだ。


この頃、期待の若手と呼ばれたドライバーたちは、私と同年代だった。
とくにジャン・アレジ
90年米国GPでのセナとのバトルは伝説となり、
91年から名門フェラリーへ。
すぐにでも初勝利を挙げ、ワールド・チャンピオンになる存在と
メディアは書きたてたが、勝利は95年カナダGPでの1勝のみ。
チャンピオンにはなることなく90年代終了とともにF1人生を終えた。


あの走りが好きだった。
アグレッシブで多少のマシンの不調などものともしない走り。
ただ勝利には走りだけでなく、マシン開発力や
チームでの立場を確かにする政治力や、
ライバル・チームを凌駕するスタッフを揃える組織力が必要だった。


この辺りを全て兼ね備えたドライバーがM.シューマッハなのだろう。
サイボークのような走り、ふてぶてしく自信にあふれた言動…。
私には全く魅力を感じさせない存在だった。
F1から味わいを、私の興味を奪ってしまった存在。


ティレルフェラーリベネトン
アレジのレース人生に、自分のクリエイティブ人生を重ねたりした。
アレジのチームが変わるごとに、私も会社が変わった。
シューマッハとトレードのような形で移籍したベネトンでは、
勝利とチャンピオンを心底期待したものだけれど…。


98年、アレジがトップ・チームを離れザウバーに移籍した年、
私もクリエイティブを離れ、ある企業の宣伝部に出向した。


2001年、アレジが引退した年、
私の名刺から「クリエイティブ」の文字が消えた。


だが、そう遠くない将来、ジャン・アレジ
またF1の世界に戻ってくるんじゃないだろうか?