アレジとともに駆け抜けた90年代。
久々に青空が広がった三連休初日、
テレビでF1予選を観ている。
F1グランプリ、私にとって
90年代の象徴である。
セナ、プロスト、マンセルと
個性あふれるドライバーの存在。
バブル景気とともにスポンサードする
日本企業が続出。中島悟、鈴木亜久里と、
日本人ドライバーの進出。トップ・エンジン
として君臨したHONDA。全戦中継を始めた
フジテレビ…。さまざまな要因により空前のF1ブームに沸いた。
私自身、91年、92年、実際に鈴鹿に足を運び日本GPを観戦したものだ。
この頃、期待の若手と呼ばれたドライバーたちは、私と同年代だった。
とくにジャン・アレジ。
90年米国GPでのセナとのバトルは伝説となり、
91年から名門フェラリーへ。
すぐにでも初勝利を挙げ、ワールド・チャンピオンになる存在と
メディアは書きたてたが、勝利は95年カナダGPでの1勝のみ。
チャンピオンにはなることなく90年代終了とともにF1人生を終えた。
あの走りが好きだった。
アグレッシブで多少のマシンの不調などものともしない走り。
ただ勝利には走りだけでなく、マシン開発力や
チームでの立場を確かにする政治力や、
ライバル・チームを凌駕するスタッフを揃える組織力が必要だった。
この辺りを全て兼ね備えたドライバーがM.シューマッハなのだろう。
サイボークのような走り、ふてぶてしく自信にあふれた言動…。
私には全く魅力を感じさせない存在だった。
F1から味わいを、私の興味を奪ってしまった存在。
ティレル→フェラーリ→ベネトン。
アレジのレース人生に、自分のクリエイティブ人生を重ねたりした。
アレジのチームが変わるごとに、私も会社が変わった。
シューマッハとトレードのような形で移籍したベネトンでは、
勝利とチャンピオンを心底期待したものだけれど…。
98年、アレジがトップ・チームを離れザウバーに移籍した年、
私もクリエイティブを離れ、ある企業の宣伝部に出向した。
2001年、アレジが引退した年、
私の名刺から「クリエイティブ」の文字が消えた。
だが、そう遠くない将来、ジャン・アレジは
またF1の世界に戻ってくるんじゃないだろうか?