ティン・パン・アレーのSIDEWAYS

季節が流れていく。音楽が聴こえてくる。

アルファへの想い+α。

tinpan19732006-06-27

ティン・パン・アレーを訪ねて〕第7回


音楽が、いや時代を変えたクリエイティブが、
生まれた場所そのものに興味を持つようになった
のは、いつからだろう?


まがりなりにも、自分が何本かのCMやビデオの
制作に携わるようになった時からか。
スタジオにいると時間の観念が無くなる。
今が昼なのか夜なのか、すぐにわからなくなる。
下手すると季節さえもわからなくなってしまう。


田町駅の芝浦側に、アルファ・レコードはあった。
駅の逆側にある大学に僕が通った1983年からの4年間、
そこにアルファが在ることは至極当然のことだった。


ユーミンだと76年『14番目の月』まで。
ハイ・ファイ・セットだと77年大ヒット・シングル「フィーリング」、
教授の79年レコード大賞編曲賞受賞曲である
サーカス「アメリカン・フィーリング」、YMOはたしか2枚目のアルバムまで。
(『BGM』からたしか護国寺LDKスタジオ)
美奈子さんだと『モノクローム』『モンスターズ・イン・タウン』あたり。
他にもカシオペアも、佐藤博さんも、大村憲司さんも…。
さまざまなエポック・メイキングな作品が、このアルファのスタジオで
レコーディングされたはず(厳密に調べていません。申し訳ない)。


そんな感慨に浸ることなく、学生時代は瞬く間に過ぎて行った。
今覚えているのは、近くにあった(今もあるのだろうか?)
田町ハイレーンに何度かボウリングをしに行ったことと、
(プロ・トーナメント開催OKのレーンの長さが好きだった)
就職活動がスタートするころモノレールが走る線路のすぐ下で、
友人たちと夕方ビールを飲みながら、当時の不安と焦燥を
青臭く語り合ったことくらい。


90年代の後半、近くにある広告代理店を何度か訪れた際、
違う会社の名前になってしまったこの白いビルの前を
通りがかったとき、足を留めしばし村井邦彦氏のことを考えた。


モノを作る苦しさや辛さを知ったら、この建物が愛おしくなった。
土地や建物そのものが持つパワーも、
作品にプラスαをもたらしたに違いない。


大切なモノは、無くして初めて気がつく。
失うほどに、愛しさは増す。
アルファ・レコードもそうだけれど、
現在、直面している別のことでも、僕はそれを実感している。